仏のことば その26

こんにちは、熊谷墓園 石材部の佐藤です。
このインターネットが当たり前の時代ではブログをするという事は、もはや「日常茶飯」な事になってきています。
どこででも見かける平凡な出来事、ありさま、と現代の我々はこの言葉をそれこそ日常茶飯に用いていますが、本来はもっと大切に使いたい言葉です。
禅家では、あり合わせのものを「家常」と呼びました。つまりは、家の中にいつもあるもの、家の常。
当然、誰の目にもありふれた、なんでもないもの、どうでもいい習慣にしか映らない。
そこでまず「家常茶飯事」という言葉が生まれました。そして一般的に用いられる様になり、「家常」が「日常」にかわり「日常茶飯」になりました。
つまりは、人間、毎日の常としてお茶やご飯を食べます。そして、それを何も特別な事とは思いません。
同じ様に、優れた真理も、平凡な毎日の暮らしの中で、それこそ、ありふれた行為のごとく実践されてこそ意味がある、というのがこの言葉の本来の真意と言われています。
逆に、真理なんてたかがこんなものにしかすぎないのさ、という皮肉なニュアンスも込められているそうです。
「日常茶飯事」も同じ意味です。
しかし、お茶を飲んだりご飯を食べる習慣は無意識に身に付きますが、真理がごく平凡な日常生活の中に存在することを認識するまでには、とかく時間がかかるものです。

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