軍神と共同墓地

前回の、『神仏分離とお墓』の続きになります。

こうしたなか、明治4年に戸籍法が制定され、22年には大日本帝国憲法が発布されました。「家長」を絶対的な存在とする「家制度」はこの戸籍法で示され、帝国憲法において確立されました。そして、この家制度が江戸時代にあった先祖供養を一歩進め、「先祖代々の墓」という今に伝わるお墓の伝統をより強固なものにしていったのです。

帝国憲法にはもう一つ、お墓のその後にとって大きな意味を持つ規定がありました。「信仰の自由」が保証されたことです。信仰の自由が保証されたことでキリスト教が復活し、日本にはキリスト教、仏教、神道と多彩な宗教が同居することになりました。

このため、寺院に属さない自由な墓地空間が求められるようになり、これが宗教を問わない共同墓地を誕生させる契機になったのです。

東京ではまず、青山・百人町と、渋谷・羽沢町に行政府が管轄する共同墓地が開設されました。その後、深川、谷中、染井、雑司が谷、立川、亀戸、板橋と、明治時代だけでも都内九か所に公共墓地が作られました。

 

お墓を考えるうえで忘れてならないことが、明治時代にはもう一つありました。それは、明治27年に戦端が切られた日清戦争と、明治37年の日露戦争、この二つの戦争です。列強の仲間入りをするために経験したこの戦争で、政府は戦死した従軍兵を「軍神」として祀るよう奨励しました。

古い墓地に行くと今でも、そんな兵士の墓を見ることができます。奇妙なことに、神として祀られているのにお墓の墓地に墓碑が建っていたりします。これは、前述したように神社には墓地がなかったせいですが、それはともかく、軍神となった兵士は、その家の誉れとして称えられます。

このことが、人々に「先祖代々の墓」という意識をさらに強固に植え付けていったと考えられるのです。

しかし、そのような意識も、第二次世界大戦で敗戦国になり、「個人の自由」を尊重する新しい憲法が制定されたときから少しずつ変わっていきます。その後、高度経済成長期を迎えた頃から核家族化が進み、お墓に対する考え方が「先祖代々の墓」から「個人の墓」へと急速に変化していきました。

新しいお墓のかたち

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