神仏分離とお墓

本日は神仏分離とお墓のお話をします。

明治時代に入って、お墓に関する習俗は大きく変わりました。それには、明治政府の政策が深く関わっています。

明治元年、明治政府は祭政一致の方針に基づいて神仏分離令を発令しました。日本では、奈良時代の頃から神仏習合が行われていました。つまり、わが国固有の神の信仰と仏教信仰が並存し融和していたのです。

その神仏習合がこの神仏分離令によって終焉し、神道のみが国家及び民族の宗教として認知される時代に突入したのです。さらに政府は、明治5年に全国の神主と僧侶の任命権を掌握しました。

こういった政策を背景に、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と呼ばれる動きが広まっていきました。廃仏毀釈とは、仏法の教えを廃して釈尊の教えを棄却することです。このため、神社と仏寺との間に争いが起こり、寺院、仏具、経文などの破壊運動に発展していきました。

この大きな変化の中で、葬祭も神主が取り仕切ることになり、従来の仏式から神式の葬儀が広まっていきました。仏式では戒名をつけますが、神式の場合は「命」をつけて死者を神として祀ります。

ただ、神道では長い間葬祭を扱ってこなかったので墓地を所有している神社はほとんどありませんでした。このため、遺体や遺骨を葬るお墓だけは従来からあったお寺のものを使用するという変則的な葬法が行われるようになっていったのです。

さらに、明治17年には現在の墓地埋葬法の原型となった「墓地及埋葬取締規則」が制定され、墓地の設置に規制がもうけられています。

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