日本石材工業新聞の記事を読んで。

こんにちは熊谷墓園石材部の齋藤です。今回は、日本石材工業新聞の記事の事を話したいと思います。

記事の内容は、原発事故の影響で事業が行き詰まり、父親が自殺した、樽川和也さんのエピソードです。自殺後、東京電力は、裁判外紛争解決手続きで自殺との因果関係を認め、慰謝料や葬儀費用を支払う和解には応じたそうですが、謝罪に関しては最後まで拒否したそうです。

もちろん納得がいかなかった遺族が、再度東京電力に謝罪を求めました。この時の記者会見は記事にもありましたが、動画サイト「youtube」にUPされていましたので、「第38回全国公害被害者総行動デー」で検索すれば見る事ができます。

そして、今回私がこの記事を見て一番強く感じたのが、記事の筆者である望月さんのこの言葉です。

「これは極端な例ですが、こういった思いを、お墓無しで癒す事が出来るのだろうか・・・。不慮の事故や事件に巻き込まれて、あるいは病気などで亡くした子どもや親を供養する方法は、やっぱりお墓しか無いんじゃないかと私は思うのです。

(中略)

東日本大震災では、まだ2歳になっていない子どもも津波で命を落としています。生きる事と死ぬ事の境界が如何に近い事か、実感した被災地では海に散骨して欲しいとか、お墓はいらないという人は、いないのではないかと思います。「お墓が要らない」というのは、死が実感できなくなってきた事の表れなのかもしれません。」

私は、死を実感するということは、とても怖い事だと思います。なぜなら死にたくないからです。それに普通に呑気に生きていくためには、死ぬ事ばかり考えていたら辛くてしょうがありません。

しかし、この記事を読んで、死を実感しなかったらもっと怖い事になるかもしれないと感じました。話の中に散骨の話がありましたが、もし海に散骨してしまったら、二度とお骨はもどりません。今回の地震で津波により多くの方が流されました。遺族の方は何とか取り戻したい。もしお骨があるなら、お骨だけでも取り戻したいと思っている事でしょう。

私の父はまだ健在ですし、子どもも、もちろん健在です。が、いずれ私にも死を実感する時が来る事でしょう。私自身も含めて。

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